今日は日産のダットサンをご紹介します。この博物館には計3台のダットサンがいましたので、一挙に紹介してしまおうと思います。
ダットサンというと、ダットサン・ブルーバードや、ダットサン・サニー、ダットサン・フェアレディなど、どちらかというと"大衆寄りの乗用車に付くブランド名”というイメージを皆さんも持たれていることでしょう。
では皆さんは、そんな“ダットサン”ブランドがいつ登場したのか、そのルーツ・名前の由来は何なのか…それはご存知でしょうか。
以下では、そのことについてチョイと解説していこうと思います(ダットサンについては以前も紹介したことはありますが、かなりのブランクがありますからねぇ)。
ダットサンのルーツは、なんと明治時代まで遡ります。
1911年(明治44年):
【橋本増治郎】氏が【快進社自動車工場】を創立。
この人がダットサンの生みの親の一人と言えるでしょう。
1914年(大正3年):
快進社自動車工場創立から僅か3年という期間で、日本初となる全パーツが日本製の純国産自動車を完成させました。このクルマは【脱兎号】と名付けられ、名前の通りダットサンのご先祖様となるクルマです。
名前の由来は“脱兎の如くキビキビ走る自動車”という意味合いもありましたが、脱兎(DAT)号の開発に携わった橋本氏の協力者3人:【田(Den) 健治郎】氏・【青山(Aoyama) 祿郎】氏・【竹内(Takeuchi) 明太郎】氏のイニシャルにも由来しております。ちなみに、竹内氏はあのコマツの創業者らしいです。ビックリ!
1918年(大正7年):
脱兎号開発の成功により勢い付いた橋本氏は、株式会社【快進社】を設立しました。
1925年(大正14年):
ここで自動車名と同じ会社名、【ダット自動車商会】という名前に変え、株式会社から合資会社へ路線変更。
これは、世界恐慌や関東大震災による不況の影響で出資金が集まりにくかったため、無限責任社員による信用出資&労務出資も可能な合資会社に改組したものと思われます。また、株式会社の株主は間接責任で尚且つ有限責任であるので、倒産した際に金銭のとりっぱぐれが生じてしまい経営者のリスクが大きいからという理由も考えられます。
1926年(昭和元年):
1919年に設立されていた【久保田権四郎】氏の【実用自動車製造】株式会社と合併し、【ダット自動車製造】株式会社が誕生。
自動車の製造・開発に拍車をかけます。
1930年(昭和5年):
ダット自動車製造設立から5年、技術士【後藤敬義】氏らの涙ぐましい努力により、ついにダットサンの始祖とも言うべき小型の乗用車が完成しました…!
それが【ダットソン号】。何故“そん”な名前が付いているのかと言えば(汗)、小型自動車なだけあって、源流の脱兎号より一回り小さなサイズだったから。“脱兎号の息子(SON)”ということで、“ダットソン号”となったわけでありますなぁ。
1932年(昭和7年):
では、ダットサンという名前は一体所から来たのか…。ダットソンの聞き間違い?写し間違い?…いえいえそんなことはございません。
その秘密はダットソン号の誕生から2年が経過した、1932年にあり…!
かねてよりダットソン号の販売事業展開を目論んでいた自動車の研究者:【吉崎良造】氏が発した…「ダットソンでは“損”をイメージさせて縁起が悪いから、縁起のいい太陽に変えて“サン”とつけてみてはどうか」的な言葉。これがきっかけとなり、同年に【ダットサン号】に改名。
そして吉崎氏もダットサン号を販売する【ダットサン商会】を展開することが出来て、めでたしめでたし…!
以上が、ダットサンのルーツ・由来となります。
しかし皆さん。ここまでのお話で、“日産”という単語が一度も登場してこなかったことに気付かれたでしょうか?鋭い読者諸姉諸兄の方なら気付かれたのではないでしょうかねぇ。
実は、日産自動車はダットサンが現れた時点ですら存在していなかったのです…!日産の名前の歴史よりも、ダットサンの名前の歴史の方が長いなんて、意外だった方も多いのではないでしょうか。
話すと長くなるので話しませんが、日産自動車のルーツは、ダット自動車製造のルーツである快進社にあるわけではなく、全く別の【戸畑鋳物】株式会社(【鮎川義介】氏が創業者)という会社にあります。この戸畑鋳物という会社とダット自動車製造との間に紆余曲折色々ありまして、“日産自動車”という会社が出来たわけであります。
“紆余曲折色々”の部分は非常に面白いので、いつか記事にまとめてみたいところではありますが、先程も言いましたが、話が長くなってしまうので、今回はこの話はこれでオシマイ!です…!
日産 ダットサン・セダン(17型)
1938年式
九州自動車歴史館にて 2014年8月2日撮影
ダットサンは国産車黎明期に登場した自動車なので、まだまだ改良の余地は多く、毎年のようにモデルチェンジを繰り返してグレードアップを施しておりました。また、変わっていったのはメカだけでなく、外見も細かな改良が施されており、それによりいつ頃のモデルなのかを判断できるのです。
…とは言え、当時のクルマは壊れやすく、壊れてしまえば新しいものに付け替えるという措置がなされていたため、グリルやルーバーなどが新しいものに交換されている可能性もあり、一概にコレ!と断定出来るわけではないのが難しいところです。
このダットサンは、グリル中央のステーが極太なので、1938年式の17型:要は最終型のダットサンであると分かります。
戦前のクルマだけあって、現在どころか、昭和30年代のクルマとも大きく異なったデザインですね。フロントタイヤを覆うだけのフェンダー、独立しているヘッドライト、平面ガラス、アポロ式ウインカーなどなど…なるほど興味深いです。
ダットサンは大衆車というだけあって、タイヤも激細、やたらに細いボディという現代では考えられないような形をしています。これで大人を載せて走ったというのですから大したもんです。
日産 ダットサン・トラック(17T型?)
1938年式?
九州自動車歴史館にて 2014年8月2日撮影
ダットサンには、セダンの他にもトラックも用意されていました。
乗用車のダットサンの系譜は途絶えてしまったものの、ダットサントラックは日本では2000年代初頭まで名前が受け継がれるという大往生を果たしました。
これがその初代のモデルだと考えると、なんだか感慨深いものを感じますねぇ。
日産 ダットサン・フェートン(16型)
1937年式
九州自動車歴史館にて 2014年8月2日撮影
このダットサンはグリル中央のステーが細いのと、サイドのルーバーのデザインより16型と推測されます。
ダットサンには、先ほどまで紹介してきたセダンやトラック以外にも、このようなフェートン(4人乗りのオープンカー)も用意されていました。また、ロードスター(2人乗りのオープンカー)やクーペたるボディも用意されるという充実っぷり。
この個体は、グリル下部に空いた穴に棒が突っ込まれていましたが、これはクランク棒といって、セルモーターなどという便利な代物な存在しなかった時代の産物です。
嘗ての自動車は、セルモーターでエンジンを始動させる代わりに、クランク棒と呼ばれる棒をクランクシャフト直結している穴に差し込み、手回しでクランクを動かしてエンジンを始動させていたのです。
やはりそんなしちめんどくさいことはしたくないと、次第にセルモーターの普及が進み、昭和中期~後期の頃にはクランク起動のクルマはなくなりました。
話が逸脱してしまいますが、クランク起動があった時代のクルマには、チョークというものも自分で操作しなくてはなりませんでした。
チョークとは、簡単に言えば空気弁のようなもの。チョーク棒を引っ張ることで弁を回転させてエンジンへと吸入される空気の量を調節し、エンジンに流入する燃料の濃度を変化させることが出来るのです。
よって、エンジンをかけるときは、チョーク(空気の量を調節)とアクセル(ガソリンの量を調節)を上手い具合に操作して、空気とガソリンを最適な比率で混合し、そしてクランク棒を使ってクランクシャフトを動かし…という風に、クルマに出入りしながら一連の作業を行う必要がありました。しかも、気温の違いによって混合比を変化させないといけないため、エンジンの始動にコツが必要だったとか。
しかし、セルモーターの普及や燃料噴射装置の普及により、クランク棒やキャブレターを必要としなくなり、現在ではボタン一つでエンジンを始動させることが出来るようになりました。
…いやはや、便利な時代になったものです。
便利なのもいいですが、クランク棒、チョーク&アクセル調節を行うクルマに乗ってみるのも、機械に対する愛着や知識が深まりそうでいいかも知れませんね。…たまには。(毎回それを行うと多分、いや確実に面倒臭くなってきます汗)